歴史方法論の会 ついに四年目

緩い調子で歴史学の方法論をお勉強し、飲み会に行く。そんな会です。
参加もおかわりも自由です。

【お知らせ】

○次回の勉強会は「『未来をひらく歴史』は未来をひらけるか」というような企画

○アジア民衆史研究会の大会が30日に行われます。[ビラをダウンロード](0.8MB)

第十九回(2005.?.? ??:??-)

『未来をひらく歴史』は未来をひらけるか

紹介:大日方純夫早大教授(予定)

書評:佐野智規

教育の現場から:水村暁人/繁田真爾

司会:佐々木啓

使用文献……日中韓3国共通歴史教材委員会編集『未来をひらく歴史―東アジア3国の近現代史』高文研、2005

□思いつき

繁田さんはナショナリズムについて報告します。

佐々木さんは山之内靖のパーソンズ論に若干興味があります。

廣木さんはブルデュー。

□オシャレコーナー

   

□いままでの報告

□第一回(2002.06.24):林啓太(日本古代史、聖徳太子から丸山真男まで)[レジュメ]

〈歴史〉はだれのものか
  ──歴史の〈主体〉をめぐる言説の変容と現在──

歴史を語るものみずからの、「影の投影」としての〈歴史〉。
ならば新しい歴史学は新しい〈主体〉の発見からはじまる、のか?というはなし。

□第二回(2002.10.16):片倉悠輔(日本近代アナーキズム研究)[レジュメ]

ミシェル・フーコーそぞろ読み

ミシェル・フーコーを日本史学の方法とすることができるのか、もしくはすべきなのか。
まずはフーコーをちゃんとまとめてみましょう、というはなし(未完)。

□第三回(2002.10.25):佐野智規(日本思想史)[レジュメ]

歴史叙述が「物語」ならば……

「歴史学なんて物語さ!」、恐怖の囁きに開き直ったり耳をふさいだりした後に、
どんなやり方が歴史研究には残されているのか、というはなし。

□第四回(2002.11.13):佐々木啓(日本近現代史、戦時下の徴用工の研究)[レジュメ]

成田龍一『故郷という物語』を読む

日時:11月13日(水)17:00〜
場所:早稲田大学文学部31号館207教室(生協のある建物)
   [文学部までの地図]
報告:靱矢嘉史氏「成田龍一「帝都東京」を読む」
   佐々木啓氏「成田龍一『故郷という物語』を読む」
アジア民衆史研究会のワーキンググループ勉強会との合同です。

とにかく楽しかったです。

□第五回(2002.12.18 18:00-):水村暁人(日本近世史、百姓一揆の記録化過程の研究)[レジュメ]

ヘイドン・ホワイト「メタヒストリー」を読む(炎)

使用文献: Hayden White, Metahistory : The Historical Imagination in Nineteen-Century Europe

「歴史学は科学だなんてノーテンキに言ってんじゃネぇ!」とふっかけられたとき、
「あれ。そういや歴史学のレゾンデートルってなんだったっけ? 文学と何が違うんだったっけ」というはなし。

□第六回(2003.01.22):繁田真爾(近現代思想史、北村透谷研究)[レジュメ]

サバルタン研究 ─ 民衆史の方法

使用文献:@竹中千春[訳]「サバルタンの歴史−インド史の脱構築−」(岩波書店)
     AG.C.スピヴァク「サバルタンは語ることができるか」(みすず書房)

 報告では上記文献を参考にしながら、サバルタンとは何か、サバルタンスタディーズとは何をめざしているのか、などなど、検討してみたいと思います。さしあたり、@のなかでも「日本語版への序文」と、それに続くラナジット・グハの3論文に目を通してもらえれば充分です。
もちろんそれだけに収斂されない多様多彩な研究がサバルタンスタディーズなのですが、その点はできる限り報告で補います。(今のところ、Aではp81:サティーの習俗、p113:少女自殺事件、この2事例は扱うことにしています。余裕のある方は読んでおいて下さい)
 予定では、「方法論の会」の趣旨を尊重して、最終的に日本の民衆史研究と比較考察できれば、と考えています。
 がそれも報告者の力量次第で、どれだけ掘り下げられるか分かりませんが、よろしくお願いします。繁田

歴史研究者はホントに、他者たる対象を represent してるのかしら? そもそもそんなの大きなお世話なのかしら?
ひょっとすると、他者の歴史を語ることも一つの抑圧なんじゃないかしら? という疑心暗鬼なはなし。

□第七回(2003.03.05 18:00-):廣木尚(日本史学史)

西川長夫『国境の越え方−国民国家論序説−』を読む

(感想をお寄せ下さい)

□第九回(2003.04.23 18:00-):佐藤美弥(近代建築史)

ピエール・ノラ「記憶と歴史のはざまに ―記憶の場の研究に向けて―」書評

使用文献:ピエール・ノラ著 長井伸仁訳
     「記憶と歴史のはざまに ―記憶の場の研究に向けて―」
     (『思想』岩波書店、2000 年5 月)

 先日日本語訳全3 巻が刊行された、ノラ編『記憶の場』(ご参考:岩波ブックサーチャー)の序論として、原著第1 巻刊行の際(1984 )に執筆されたものです。
 少し古いと思いますが、「記憶」研究の嚆矢であるノラらの研究の問題意識をとらえるってことで、意味があると思います。あわせて、昨今の「記憶」研究事情にも触れられればと思います(希望)。分量的にも『思想』30 ページぶんくらいで手ごろと思います。

記憶と歴史のシアワセな一致が崩壊し、何を語ることが重要なのかわからなくなった現在、
「歴史の物語性」を踏まえた上での新しい認識の地平はドウナンダ?というはなし。

□第八回(2003.03.17 18:00-):須田努(近世近代移行期研究、[著書]

戦後歴史学の動向について(特に1950年代から60年代の問題について)

参考文献:石母田正『歴史と民族の発見』遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』

もうそろそろ「戦後歴史学」も、歴史的対象として研究することができるのではないかしら、
そうしたばあいある程度は政治還元論で語れるけれど、それでよいのかしら、というはなし。

□第十回(2003.05.28 18:00-):パネラー/A. Gebert 佐々木 林、司会/繁田、コーディネーター/佐野

戦争の現在性 〜イラク問題、反戦運動について語る〜

趣旨文(佐野):
イラクで起こってること、これから起こること。
世界で起こっていること、これから起こること。
それは「現在─いま、ここ」の「私」とどのようにかかわるのか(主体的に=関わる/拘わらせられる)。
たまたまその地域に生まれることなく、たまたまこうやって生きている「私」は、
このような世界とどのような関係を取り結んでいるのか、取り結ぶのか。
そして職業としての「研究」というものは、なにかしら希望のある援助を、「私」に与えるのか/否か。


などと若干おセンチに書いてしまいましたが……
今回の戦争について、歴史学界からのリアクションは(管見の限り)弱々しいものでしたし、
歴研声明などはとても説得力のあるものとはいえないものだと思いました。
歴史学はもはや、時局に対して何ら特権的な発言力も、
何らかの鋭い分析能力も持ち合わせてはいないんでしょうか。
あるいはそれを求めること自体が、啓蒙的独善なんでしょうか。
いま、私たちが(大したものではないにせよ)やっているところの歴史研究は、
この戦争を考える上で、あるいは実践的にかかわっていく上で、どういう意義があるのでしょうか。

□第十一回(2003.06.17 18:30-):鈴木文(対外関係史)

□第十二回(2003.07.23 18:30-):片倉悠輔(日本近代アナーキズム)

トラブルの作法 ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』を読む

使用文献:ジュディス・バトラー著 竹村和子訳
     『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの撹乱』青土社、1999刊
     (重要なのは第一章で、第一章と結論をよめば、ほぼ論旨を把握できます)

趣旨文:
 ジェンダーというものが文化的・社会的産物だという認識は、当然の事柄として受け止められるようになって久しいと思います。しかし、ジェンダーの背後にある(と一般的に考えられている)「セックス」(生物学的性)についてはどのように考えられているでしょうか?ジェンダーが文化的構築物だといっても、その背後には「セックス」が厳然としてあり、それが結局は個々人の性的意識の原因であり、それに従うことが「自然」なのでしょうか?私たちは性的自由を唱えて変化しているように見えながら、結局は本来的「セックス」の周りをグルグルと旋回しているだけなのでしょうか?
 また、既存のジェンダー構造に(政治的運動を通じてであれ、歴史学などの学問的認識を通じてであれ)意義申立てをするとき、私たちはどのような立場性からそれをするのでしょうか?「男」として、「女」として、「ゲイ」として、「レズビアン」として…それらを本来的なものとして引き受けた後、意義申立てを行なわざるをえないのでしょうか?
 以上のようなジェンダーを考える上では避けられない問題に、本書は大きな示唆を与えています。今回は、そうした問題に対するバトラーの考えを検討することを中心に、できればジェンダーと、国民国家や歴史認識との関わりについても検討してみたいと思います。

□第十三回(2003.10.28 18:00-):玉井建也(日本近世史)

カルチュラルスタディーズとは何か

使用文献:上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』
     (ちくま新書740円)

趣旨文:
 方法論の会に出席されている皆様。
 近世史専攻M1の玉井です。今回は「カルチュラル・スタディーズで」とご指名を戴いたので力不足ながらも報告を行なわせていただくことになりました。使用する著書は上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書740円)になります。選んだ理由は安いから・・・という現実問題と直面しながらも、ゲーム・漫画で育った現代っ子であるこの私が「カルチュラル・スタディーズ」とは本来はどのような学問だったのか?についてアプローチしたいと思います。如何せん「大衆文化」を研究するのが「カルスタ」というイメージしか報告者にはなかったので、どこまで掘り下げられるかは甚だ疑問ではありますが、その「文化」へのアプローチ方法を歴史学へ、そして個人的にはオタクの道へどこまで生かしきれるのか考えながら報告を行ないたいと思います。

□第十四回(2004.4.28 18:30-):檜皮瑞樹(幕末外交史)

「ポストコロニアル」と歴史学

使用文献:小森陽一『ポストコロニアル』、「思考のフロンティア」シリーズ
     (岩波書店1,260円)

□第十五回(2004.6.2 18:30-):中西崇(近世の在村鉄砲)

安良城盛昭を読む

使用文献:安良城盛和「太閤検地の歴史的意義」

第十六回(2004.7.13 18:30-):片倉悠輔(アナーキスト)

書評:Nozic著『アナーキー・国家・ユートピア』1985、木曜社

使用文献:『現代日本思想体系16アナーキズム』1963、筑摩書房 所収 松田道雄「解説」

第十七回(2005.5.24 18:00-):山本和徳(「疎開」の思想史)

書評:「『記憶/物語』について物申す」(仮)

使用文献:岡真理『記憶/物語』2000、岩波書店

第十八回(2005.7.27 18:00-):廣木尚(史学史)

「上野-吉見論争」とその周辺

□イベント

民衆史研究会コーナー

東歴研近代史部会コーナー

みなさま

いつもお世話になっています。東歴研の佐藤美弥です。
第3回東歴研近代史部会についてご案内いたします。
今回は下記の通り、佐貫正和氏の個人研究報告です。
明治〜大正期の生物学者、教育家、評論家である丘浅次郎を対象に、その自由主義的共和主義思想の形成過程を思想史的に検討していただきます。
みなさまお誘い合わせのうえふるってご参加ください。



報  告:「日本における自由主義的共和主義の考察 ――丘浅次郎を対象に――」
     (報告者 佐貫正和)
参考文献:丘浅次郎「触らぬ神の祟り」『丘浅次郎著作集 ―煩悶と自由』有精堂、1968年
     ――――「猿の群れから共和国まで」『丘浅次郎著作集 ―猿の群れから共和国まで』有精堂、1968年
     家永三郎「日本における共和主義の伝統」『思想』410、1958年10月〔久野収『天皇制』論集・三一書房1974年〕
日  時:7月23日(土)14時から
会  場:明治大学駿河台キャンパス(詳細は追ってお知らせします)
連 絡 先:佐藤美弥

以上

歴研近代史部会コーナー

・10月に奈倉さんの『風刺眼維新変革』書評会をやるそうです。

アジア民衆史研究会コーナー

7/30に大会やります。